最期の時間を幸せに過ごす患者さんとの話から感じたこと

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
先日、訪問診療でみていた患者さんのご家族が診療所にみえました。患者さんは少し前から病院に入院しており、その入院先の病院で亡くなりました。その報告とご挨拶に来られたのでした。
その方は癌の末期でしたが、1年ほど前に診断された時はすでにどんな治療も間に合わない状態になっていました。ただその時はまだ無症状で元気でしたから、できるだけ家で過ごさせたいという家族の思いがあって訪問診療をしながらの在宅療養が始まったのでした。ご本人には癌という病名は伝えていましたが、末期であることや、もう治療の手だてがないことは話していませんでした。
 
これは予想外でしたが、1年ほどは何事もなく自宅で過ごされていました。家の近くを散歩したり、ご友人とでかけたり、多少は体のしんどさはあったと思いますが生活を楽しんでおられたようでした。
 
しかし1年ほど経過した頃からお腹がはって食事がとれなくなってきたため、緩和ケア病棟に入院することになりました。
緩和ケア病棟は、癌の患者さんが最期の時を穏やかに過ごすための場で、そこでは抗癌剤などの癌そのものに対する治療はしません。癌による痛みや息苦しさなど様々な症状に対して、それらを緩和しできるだけ苦痛なく過ごしてもらうようにケアをします。身体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛に対するケアも行います。
 
訪問診療していた患者さんは入院してしまうと中々お会いする機会は無くなってしまうのですが、その方とは入院した後も1回だけ緩和ケア病棟の病室で会って話をする機会がありました。
その時の話はとても印象に残っています。
話に出てくるのは、感謝の言葉ばかりでした。「とても良い病院にいれてもらうことができました。」「自分は何の取り柄もないけれど、いい縁に恵まれました。」「子供たちも一人前になって、よくしてくれて本当にありがたい。」
残された時間が長くないことは、話していなくてもおそらくわかっていただろうと思います。
そんな中で口から出るのは感謝の言葉だけで、とても穏やかな表情をされていました。
癌による苦痛がなかったはずはありません。そのとき患者さんは、腸閉塞といって癌により腸が閉塞してしまったために食事も水分もとれない状態だったのです。それでもつらい・苦しいという泣き言はなく、これまで自分が人との出会いに恵まれ多くの人に助けられたということを話してくれました。
もちろん、主治医だった私に思いの全てを話したわけではないでしょう。別の人には愚痴やつらかった出来事を話していたかもしれません。
しかし語られた感謝の気持ちが真実であることにかわりはありません。
私はこの方は最期の時間を本当に幸せに過ごされていると思いました。
そしてその源は感謝の気持ちなのだろうと思いました。感謝できるということ、ありがとうと言えることが幸せなのだと思います。
人は皆幸せになりたいと思うでしょうけれど、そのためにできることは意外と単純なことのような気がします。
こんな風に言うと、感謝できるような出来事があったから幸せなのであって、そもそもそんな出来事がないから感謝もできないし幸せでもないのだ、と考える人がいるかもしれません。
でもそうでしょうか。
同じ出来事であっても、それに感謝できる人とできない人がいるのではないでしょうか。あるいは同じような生活をしていても、その出来事に気づけるか気づけないか、とも言えます。
感謝できることが幸せなのだということは、別に有り難いことに感謝するということではなくて、それが有り難いと気づけることなのだろうと思っています。
 
ある患者さんの最期を過ごす姿をみて、このようなことを感じました。
その方は、長男さん・長女さんご家族に見守られ、お孫さんに手を握られながら静かに眠るように息をひきとったのでした。