最期を迎えるとき2

(前回からの続き)
しかし一方でまだまだ足りない部分もあります。
過剰な医療の問題です。
過剰な医療というと、人工呼吸器で呼吸を長らえさせたり、胃瘻で栄養を確保したり、薬で心臓の働きや血圧を維持したりするような比較的高度な医療を想像するかもしれません。
確かにそれはそれで色々な問題点がありますが、今回想定している場面はそこまでしないにしても、人の最期の場面に直面するときに誰もが感じるであろうことです。
 
それは、人は自分の家族が死んでいく様を黙ってみていられないということです。
多くの人は死に立ち会う機会はそんなにたくさんありませんから、人がどのように最期を迎えるかということについてのイメージはあまりないのではないかと思います。そこまで突き詰めて考える人もいないかもしれません。
 
例えば最も望ましいと考えられている老衰での最期は一体どのようなものでしょうか。
ひょっとしたらこんな風に考えている人がいるかもしれません。
今年で90歳になったおばあちゃんが、昨日まで今までと同じようにしゃべって、笑って、食事をして、自分でトイレにも行っていた。そうしてその翌朝になって起きてこないなあと見に行くと、布団の中ですでに息を引き取っていた。まるで眠っているようでした。
…これはかなり幸せな、しかし極めてまれなケースと言えるでしょう。
人が死を迎える過程は、こんなはっきりとしたものではないはずです。ある時点まで100で生きていて、そこから先は死んで0になるなんていうのは、事故か極めてまれな重病くらいしかないと思います。
実際には徐々に弱って、歩けなくなって、トイレに行けなくなって、食事が食べられなくなって、寝たきりになって、そして息を引き取る。これが自然な流れではないでしょうか。
多くの人が望んでいる「穏やかな最期」の中身はこのような時の流れになるはずです。
ということは、人が穏やかな最期を迎えるためには、周りの人(多くの場合は家族)の役割が極めて重要なんです。
その中で最も重要なポイントは食べられなくなる時点だと思っています。
人は食べられなくなると心配します。これしか食べていないけれど、おばあちゃん大丈夫なんだろうか。水分量は足りているだろうか。死んでしまうのではないか。
そして何とかしようとします。何とかしようとした場合、今の医療にはできることは色々あります。その人自身に食べる意思がなくても、食べる力がなくなっても、水分や栄養を供給する手段はあるんです。
例えば点滴がそうです。点滴にも色々種類がありますが、点滴により水分の補給はできます。
手段があると、それをしないという選択肢をとるのが難しくなります。
食べられないのに放っておくなんて、餓死させてしまうということじゃないのか。してあげないということに対するうしろめたさ、罪悪感がでてきてしまう。
このようにして、最期を迎える段階になっても本当は必要ではない医療行為が行われていることがあります。
確かに点滴をすることで、しない場合と比べて生存する期間が長くなることもあるでしょう。
でも、こと最期の段階にいたって人は飛行距離をできるだけ長くする記録を作っているわけではないはずです。目指すところは軟着陸ではないでしょうか。
このような場合は医療行為は行わず、本人の力が残っている範囲でやれることを援助していくこと、見守っていくことで十分だと思います。
とはいえ、色々なケースがありますし感情というものは理屈ではわかっていてもどうにもならないことがあります。
ですから実際には老衰に近い患者さんの最期を迎える段階にあって、ご家族と十分話し合った上で最小限の点滴をするというケースは多いです。
穏やかに最期を迎えるのを難しくしているのは、実はそれを見守ろうとする家族なのかもしれません。