診療ガイドラインと家庭医の専門性について その2

さて、診療ガイドラインについての二つ目の指摘です。
それは診療ガイドライン複数の疾患をもつ患者さんには役に立ちにくいということです。これは一点目の「患者の個別性が排除されている」点にも重なるところです。
 
診療ガイドラインはもともと臓器別専門医が作っていて、「その疾患だけ」がある場合の推奨になっているので複数の疾患をもつ患者さんのことは想定されていません。今は関連する様々な科の医師がその作成にかかわっていますが、患者さんが抱える疾患の数は一つや二つではない場合も多いですから、それぞれの組み合わせで推奨を提示するのは実質不可能です。
認知症、高血圧、糖尿病、脂質異常症白内障、変形性膝関節症の80歳女性患者さんについて、これらの複数の疾患が存在する場合の認知症の治療、高血圧の基準、糖尿病薬の推奨…などというものはありません。
そしてこれらに例えばアルコール問題、精神疾患などが加わればもっと難しくなりますし、社会的問題(生活保護・独居・介護問題など)も考慮する必要があればさらに複雑になります。
 
この患者さんに対応するガイドラインは存在しません。このように複数の疾患や病気以外の多くの問題を抱える人に対しては、個別性を排除して作られたガイドラインはそのまま当てはまるわけはありません。
しかし現実にはこういった患者さんはとても多いです。特に高齢の患者さんは。
家庭医の力が発揮されるのはまさにこのような患者さんにおいてです。
その場面では患者さんがどのように病気に向かい合うべきなのか、その人が考える「健康」とは何なのか、など答えの無い問いを考え続ける姿勢が必要になるのだと思います。

診療ガイドラインと家庭医の専門性について

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
医療の世界では、昨今は色々なガイドラインができて医療の標準化が図られていると言えます。
ガイドラインというのはある病気や治療法などについて、現時点での妥当な診療とされているものをまとめたものと言えるでしょう。厳密には厚生労働省委託事業であるMinds(マインズ)ガイドラインセンターホームページの”診療ガイドラインとは”が参考になります(http://minds.jcqhc.or.jp/n/st_1.php?page=4)。
「大腸癌治療ガイドライン」「糖尿病診療ガイドライン」「認知症疾患治療ガイドライン」「がん疼痛の薬物療法に関するガイドライン」などなど。
 
これらは特に医師にとって診療の役に立つものですが、このガイドラインについて今回は2点指摘しておきたいと思います。
 
一つ目は、ガイドラインは患者の個別性を排除しているという点です。
これは上述のMindsホームページの”診療ガイドラインとは”に記載してあることです。
そこには「診療ガイドラインは、医療者の経験を否定するものではありません。またガイドラインに示されるのは一般的な診療方法であるため、必ずしも個々の患者の状況に当てはまるとは限りません。」と記されています。
これは非常に重要な点です。
診療ガイドラインは科学的根拠に基づいて、系統的な手順に則って作成された信頼できる文書ではあります。
「科学的根拠」というのは研究によって明らかにされたという意味ですが、そこに診療ガイドラインの限界があります。研究では、患者の個別性は排除されてしまうんですね。
例えば、ある降圧薬(血圧を下げる薬)Aに血圧を下げる効果があるのかを調べるための研究をするとしましょう。降圧薬Aを飲むグループ①とプラセボ(効果の全くない偽の薬)を飲むグループ②の2つに分けて、1ヶ月後にそれぞれ血圧がどれくらい下がるのかを調べるとします。この場合、研究に参加する人は「千葉県で農業を営む山中さん50歳男性」とか、「両親と娘夫婦と同居して、孫も合わせて8人分の家事を切り盛りする大島さん65歳女性」などとは認識されません。せいぜい、「糖尿病・喫煙歴のある50歳男性」とか「脂質異常症のある65歳」などくらいでしょう。基本的には被験者(研究に参加した人)は数値になります。血圧が150から130まで下がった人が何人、などというように。
血圧がどれくらい下がるかを知るための研究ですから、これは当然のことですね。
 
この研究は例え話ですが、このようにして科学的研究というのは患者の個別性が排除されるのだと言いたいのです。逆に、個別性を排除して考えるのが科学的研究であるとも言えますが…。
 
しかし実際の現場にいるのは名前があり、仕事があり、家族がある、生身の患者さんです。
ガイドラインがそのまま当てはまるとは限らないわけです。
患者さんの医学的問題、生活背景、社会背景などを考慮して、状況に応じて患者さんとも相談しながら治療方針を決めていくことが必要になります。
 
…これまで家庭医の専門性について語ってきた流れからいうと、以上のことは「家庭医が得意とするところです」などと言ってまとめるのではと思った人がいるかもしれません。
たしかに得意とするところではありますね。しかし専門性というほど大げさなものではないでしょう。
患者さんの背景を全く考慮せずにガイドライン通りにだけやっている医師、なんていないと思いますから。
 
家庭医の専門性については二つ目の指摘で触れられると思います。
次回。
 

喫煙は悪なのか

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
62歳男性の患者さんで、糖尿病・高血圧などで通院中の方がいます。糖尿病や高血圧の状態はとてもいいのですが、今日はうつむきかげんでこんなことを言います。
「タバコが好きで好きで、3箱も吸ってしまうんです。」
「やめたいとは思うんですけど、でも好きで吸ってしまうんです。」
どうして止めたいのかと聞くと、お金がもったいないから、と。
今吸っているのは「わかば」という一箱260円のタバコです。それが1日3箱ですから、260円×3箱=780円。それが1ヶ月で780円×30日=23400円です。
「あー、それくらいあれば旅行にも行けますね。」
この方は生活保護で収入は限られていますが、現時点で最低限衣食住に困ることはないとのこと。
また、タバコ以外に特に楽しみというものはなく「旅行にいけますね」というのは別に旅行がしたいわけではなく、そういうこともできますねという程度のようです。
 
さて、これを聞いて私が思ったのは「別にいいんじゃないでしょうか、お金がもったいないとは思いませんが」ということです。
例えばこれがタバコではなかったらどうでしょうか?
仮に旅行が趣味の人が1ヶ月に1回、2万円をかけて旅行するとします。これはお金がもったいないでしょうか。釣りが好きな人が釣り道具や釣りをするのに月2万かけるのはどうでしょう?洋服が好きで月に2万円かけるのは?
こららは特にもったいないとは思わないのではないでしょうか。好きなことにお金をかけているわけで、その金額に見合う対価を得ているのですから。
タバコはどうでしょうか。タバコだって同じはずです。好きなことにお金をつかって、それを楽しんでいるのです。本来はもったいないということにはならないはずなのですが。
 
やはりタバコだから、ということになるのでしょうか。
おそらくやめたいと思う理由はお金がもったいないだけではなく、喫煙への後ろめたさがあるような気がします。(もちろん生活保護という背景があるので、それも関係しているとは思いますが)
 
医師の立場からいうのは何ですが、この世の中の風潮としてタバコ=悪という単純なメッセージが蔓延しすぎているような気がします。
喫煙が健康を害するということや色々な病気のリスクになるのは間違いないでしょうが、だからタバコを吸うことが悪いことなのでしょうか。
もちろん、喫煙しない人や子供への配慮などは当然のことですが、それらを配慮したとしても喫煙=悪という図式は変わらないように思います。
 
この人のように好きなことにするのにも何となく後ろめたさを感じてしまうようなタバコへの今の風当たりの強さというのはちょっと行き過ぎではないかと思うのです。
 

家庭医らしい外来診療

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
家庭医らしい外来診療について。
例えば年1回花粉症の薬をもらいにくる24歳女性。
この人に対して家庭医として効果的なアプローチとは何でしょうか。
考えることとしては、その患者さんの人となりにもよりますが、妊娠・出産(家族計画含めて)・避妊などへの介入があります。子供を望む場合は、風疹の抗体価チェックや予防接種などをチェックする必要があるでしょう。
また、この年代への予防的介入として子宮頸癌検診をすすめるでしょう。
 
このように家庭医は単に花粉症で受診する患者さんにも年齢や性別に応じて様々な視点から必要な介入をしています。

診療所の診察で、雑談をする意味

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
安定している定期患者さんが診療所外来にはたくさん来ます。むしろそのような人が多数派です。
たまに世間話のように趣味の話なんかもします。
これは別に何となく時間があったからしているわけでも、親しみやすさをアピールしているわけでもありません。
 
例えば洋裁を趣味にしている人がいます。洋裁では針に糸を通さないといけません。
ということは、この人にとって洋裁ができる程度に目がしっかりしていることや、手先が動くことは非常に重要です。
人によっては多少目が見えづらくてもそれほど気にしていない人もいます。年のせいだから、といって。同じ目がみえにくいでも気になる程度が違うのです。
そして体の状態をどう感じるかは、その人の生活に大きく関係します。
膝の調子が悪くても日常生活に問題が無ければいい人と、プロスポーツ選手で高いレベルでの身体能力を発揮しなければならない人ではだいぶ違うわけです。
 
病気であってもなくても、身体機能の低下についてそれがどのような意味を持つのか、個別性の高い問題に対応することも家庭医の役割のひとつだと思います。
一見病気とは関係のないような趣味の話をしたり家族関係や社会背景にも目を配ることには、そのような目的があるのです。
 
本当に雑談の時もあるかもしれませんが…

健康欲が不要な医療を生み出しているのではないか

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
医療には市場原理はふさわしくないという話をしました。(20150223医療と市場原理)
 
しかし現実には市場原理で動いているところがあることも事実です。
医療にも色々で、市場原理を当てはめるべきではない医療の本質的なところと、市場原理が当てはまる周辺部分とがあります。
その境目はは必要と欲求ではないかと考えます。
「必要」な医療は、本質的な医療。
「欲求」が生み出している医療は、その周辺部分。
 
医療が発達してもその本質的な部分はそこまで変わりませんが、「欲求」はその周辺部分を肥大化させてきたように思います。
現代の日本医療の大部分を占めるのは「健康欲」が生み出した、ある意味では必要ではないものなのかもしれません。
それを全否定するつもりはありませんが、本質ではないと考える視点を持つ方がよいと思っています。

ただ見守る

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
生命は全て生きようとします。
人も全て生きようとします。
ミクロレベルでもそうです。恒常性を保つというが、人はそのようにできています。
だから最後まで生きようとするのは当然。
最期の場面でただ見守るだけでいることがなかなか難しいのも当然のことでしょう。
 
認知症と衰弱で食事を食べるのも難しくなっている高齢者に対して、何もせずに見ているだけということができず点滴を希望する家族。
癌末期でやはり食事は食べられず、むくみも出てきている患者に最期まで点滴やめる決断ができない家族。
医療者側としたら、もうその必要は無いだろう、ただ穏やかに見守ってあげるのがよいだろうと思う場面もあります。それは距離感が遠い他人だから思えるのです。しかし家族は違います。自分自身に生きようとする本能があるから、旅立とうとする家族にもその気持ちを重ねてしまいます。理性では、もう十分だと思っているかもしれませんが感情がそれを拒みます。
そんなとき、医師の言葉がきっかけになるかもしれません。救いになるかもしれません。
あとは穏やかに見守ってあげるのが本人にとって一番ですよ、と。