葛藤

今回は医療行為をする上での葛藤について。
 
以前はもっと医療行為とは絶対的なものだと思っていました。
医学的に治療が必要なことは必要だし、この病気であればこの治療をすればよいと決まるものだと思っていました。
患者さんと治療方針を考える?そんなことは起こりえない。診断されれば、その後のコースは自動的に決まるものだと思っていました。
 
いや、一昔前はそうだったのかもしれません。医師が対応するのは感染症を中心とする急性疾患がメインで、患者さんも比較的若い世代であった時代はそうだったかもしれません。肺炎と診断されました、抗生剤で治療しましょう。そこに別の考えを挟む余地はなかったように思います。
 
でも今はそう単純ではありません。
肺炎と診断されました。90歳の女性で、食べ物をムセこむことから発症する誤嚥性肺炎をこれまで何回も繰り返しているのでほとんど食事はとっていませんでした。今回は自分の唾液を誤嚥して肺炎をおこしたようです。認知症もあって寝たきり状態、今では会話を交わすことはできません。
このような場合、これまでのように機械的に「肺炎⇨治療」という流れを適用するのが本当にいいのか、葛藤がおこります。どこかで治療に区切りをつけて、苦痛がないように穏やかな最期を迎えられるように方針を変えるべきではないのか。仮に抗生剤の治療はすると決めても、次の葛藤が起こります。では呼吸状態が悪くなったら、人工呼吸器を使って治療をするのか、血圧が下がったら血圧を上げる薬を使うのか、心臓が止まったら、心臓マッサージをするのか?
今は、こうするのが絶対正しい、とは簡単には言えません。
 
また、葛藤がおこるのはこんな致命的な状況だけではないのです。
 
いわゆる病気とされるものが増えて、病気でないものとの境目があいまいになりました。治療をするのかしないのか、すべきなのかどうかも悩ましいことが多くなったように思います。
ある人の高血圧の治療をすべきなのか、糖尿病の治療をすべきなのか、どういう治療をすべきなのか、これらについても葛藤はあります。
治療をすることがその人の幸せにつながるのか、よく考えていかなければならないと思っています。