不要な救急搬送を減らすことができるのは家庭医だろうと思います②

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。

 

前回は、救急受診を繰り返す85歳の高齢女性に対して家庭医として果たすべき役割があるのではないか、というところで終わっていました。
 
この方は診療所に通院していたのですが、実は診療所にも頻回に受診するようになっていました。訴えも日によって色々で、なんとなく気分が悪い、食欲がない、そわそわする、膝が痛い、腰が痛い、など。これらの訴えに対応し色々な話を聞いていく中で、問題は何か特定の病気を治療すれば解決するわけではないことがわかってきました。
つまり高齢での一人暮らしによる不安、寂しさなどが背景にあるようでした。
この方は茨城の田舎に長女として生まれ、両親を早くに亡くされたために下の兄弟たちを自分で育て、大変苦労されたとおっしゃっていました。そして結婚はせず子供もおらず、もともと社交的な性格ではないこともあり交友関係にも乏しい方でした。日常生活のことは何とか一人でできていたため、ほとんど人と交わることのない生活を送っていました。しかし加齢に伴いに徐々に体の自由が利かなくなり、特に夜間にはちょっとした体調の変化があると不安や寂しさが募り、時間外の受診が増えていったのです。
 
救急外来では、その人の状態が緊急で精密検査や治療が必要かを判断します。そうでなければとりあえずの対症療法を行い、翌日の診療時間内での受診を促すのが通常です。
しかしこの方にとって、救急外来で検査をして「この症状は重大な病気でも緊急性のある病気でもないから心配ありませんよ」と言われることは何かの解決になるのでしょうか。
その時は納得して帰宅しても、結局また不安や寂しさが募り救急受診を繰り返すことになるでしょう。
 
そこで役割を果たすべきなのが家庭医です。
家庭医は病気だけを見るのではなく、その人の背景も考えます。どんな生活をしているのか、どんな人付き合いをしているのか。何を大切にしているのか。
今回の高齢者について言えば、なぜ夜間に救急車を呼んでしまうのか、その理由を考えます。それには単に身体的な疾患だけを見ようとしてもわからないでしょう。前述のような社会背景・生活背景がわかって初めて見えてくるものがあります。そしてそれらはこちらから能動的に問いかける必要があります。
患者さんの話をよく聞いているうちに、たまたまわかったというものではありません。そこに問題解決の鍵があるはずだと考えながら話を聞いているのです。
こうして、この方の背景から頻回な救急受診の理由が見えてきました。高齢独居の不安や寂しさです。
その後は診療所を受診する際には看護師が話し相手になって不安を和らげるとともに、介護サービスにもつなげてデイサービス(高齢者が集まって食事や入浴、レクリエーションなどをしながら過ごすための施設)に行くようになりました。また遠くに住んでいる弟さんにも連絡をとり、事情を説明して施設を探すことになりました。
このようにしてこの方の救急受診は無くなっていきました。
 
これは一例にすぎませんが、不要な救急要請を減らすという点で家庭医が貢献すべき点の一つであろうと思います。

不要な救急搬送を減らすことができるのは家庭医だろうと思います ①

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
少し前になりますが、「救急搬送有料化を検討」という記事をみました。
救急出動件数の増加と、その中でも実際には軽症の要請が多いこと。そのために本当に救急搬送が必要な重症患者への対応が遅れること、そして財政的な問題。このような背景から、不要な救急要請を減らすための対策の一つとして有料化の議論となったようです。無料で簡単に呼べてしまうのが安易な救急要請の原因なのだから、お金をとることで抑止力になるだろう。そして経済的な問題も解決できる。そういう発想なのでしょう。
 
この件についてはネットで検索するとそれなりに出てきますが、だいたい有料化のメリットデメリットについての議論がほとんどだと思います。
ここでは、有料化以外に不要な救急要請を減らす方法はないのか考えたいと思います。
 
タイトルにもあるように、私は不要な救急搬送を減らすことができるのは家庭医だろうと思っています。もちろん、家庭医が全てを解決するわけではありませんが、大きく貢献できるでしょう。
こんな例があります。これは実際に経験した例です。
 
85歳で一人暮らしの女性がいました。この方は特にどこか病気があるわけではないのですが、頭痛・しびれ・なんとなく気分が悪い・額の異常感覚…などで頻繁に時間外受診をしていました。救急要請も頻回でした。そしてその度に血液検査や頭部CTなどの画像検査をうけて異常がないですよと言われ帰宅するということを繰り返していました。独居による不安が背景にあるのでしょう、診療所を受診しては寂しさや不安を訴えていました。
 
さて、「不要な救急要請」の具体的な中身の一つはこのような不安を抱える高齢者です。
この女性が救急要請をせずにいられるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。

アッヘンバッハ症候群という病名がついています

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
久しぶりの投稿になりました。
さて、診療所にくる患者さんは色々な訴えがあります。
今回はまだあまり知られていない病気。
ある日の外来では、「右手が急に痛っ!となってそのあと痛かった部分が内出血するんです。」という訴えで患者さんが受診されました。
右手をみると、なるほど親指の付け根のあたりに内出血のあとがあります。今はもう痛みはないし、内出血のあとも色が薄らいできているようです。その他に症状はなく、特に生活に支障をきたすほどでもない。
 
この症状にはAchenbach症候群という名前がついています。アッヘンバッハと読みますが、これは最初にこの病気を報告した医師の名前です。
Achenbach症候群は、何の誘引もなく突然手に痛みを生じ、内出血ができて、その後自然軽快するという経過をたどります。繰り返すことはありますが、何か重篤な病気が隠れているサインではありませんし、ほっておくと悪化して手遅れになるということもありません。原因はよくわかっていませんが、特別な治療は必要ありません。
 
病名がついて、大丈夫ですよと言われれば何てことはない症状だろうと思います。
ただこれが有名な病気ではなく医師の中でもまだそんなには知られていないのです。ひょっとしたら病名ははっきりいわれていないが「心配ないですよ」で経過観察になった人も多いかもしれません。
そうすると心配な人はあちこちの病院にいって検査をうけて…何てことがあるのかもしれません。
 
診断名がつくということは大事なことだと思います。
名前がついていて「大丈夫」といわれるのと、なんだかよくわからないけれど「大丈夫」と言われるのではだいぶ違いますよね。
医師としてはできるだけ幅広い知識をもって、患者さんの訴えることに正しく病名をつけることはとても大切なことだろうと思います。
一方で、やはり原因のよくわからない症状・名前のつかない症状も必ずあります。特にそれが自然に治ってしまうような場合は結局正体不明のままであることは多くなります。でもその場合はたいてい問題のないので、そのまま様子を見てもらっていいのです。
診療所には色々な患者さんが来ます。病名がつくこともありますが、つかないこともあります。どちらにしても患者さんに安心して帰ってもらえるようにしたいと思っています。
 

言葉と身体感覚が一致した時の感動の?話

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
今回は個人的な経験の話。言葉と身体感覚が一致したときの感動?の話です。
体の不調を表現する言葉って色々あります。痛い、痒い、だるい、吐き気がする、めまいがする、ぼーっとする、喉がイガイガする、つかれやすい…。
まだまだあります。
自分が自分でないような感覚、身の置き所の無い感じ…
その中に、「足がつる」という表現があります。医学的にはmuscle cramp筋痙攣と言われますが、これって何気なくつかっていますが足がつったことの無い人にとって「足がつる」という言葉は理解できないはずですよね。
かゆい・吐き気がする、めまいがする、なども全てそうだと思いますが、これらの言葉と身体感覚として症状を人はどのように一致させるのでしょうか。例えばめまいを感じている人の訴えを聞いて、「このことを”めまいがする”っていうのかな?」などと学習していくのでしょうか。しかしそれでも他人の話を聞くだけなので実際にそれを経験してみないとわからないし、その経験をしたときに隣にいる人が「それをめまいっていうんだよ!」と教えてくれるとは限らない。無意識下に言葉だけが存在して、あるときそれに合致する経験が訪れる…そんな感じでしょうか。
 
私は言葉と身体感覚が一致した、まさにその瞬間のことを覚えていて(いるような気がしていて)、「あ、これか!」と妙に腑に落ちたことを思い出します。
それは小学校2−3年生のとき、帰宅途中の下り坂を歩いているときでした。ふざけて何か無理な姿勢で歩いていたのでしょう、急に左足の親指がつっぱって動かしにくくなり痛みが走ったのです。しばらく無理矢理歩いていたら自然に治ったのですが、このときなぜか「足がつる」という言葉が頭に浮かび、これが「足がつる」ということなんだなと理解したのです。まさに言葉と身体感覚が一致した感動の瞬間でした。
でも、思い返すとそれ以前にも足がつったことはあったし、足がつるという言葉も聞いていたようにも思うのです。しかし自分の感覚としてはそのときに初めて一致した、と思ったのでした。
無意識下に漂っていた「足がつる」という言葉が、それに合致する身体感覚を手に入れた瞬間でした。

癌末期の患者さんの最期を穏やかに見守るために大切なこと③

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
今回は、癌末期の看取りにおいて急変時の対応を確認することは、つまるところ心肺蘇生をしないことを確認することと同じであると言いました。実際、本人・家族が心肺蘇生を望むということはほとんどなく本当に確認だけなんです。
しかし稀に今回のようにできるだけ長く、と訴える人がいます。ではこのようなときに家族の意向であるからといってそのままそれを受け入れるのか(本人の意思がわからない場合)。癌で旅立とうという人に心臓マッサージをするのか。
これは家族の意思がそうだからといって、それをそのまま受け入れてはいけないでしょう。
医師は、心肺蘇生をしないという覚悟を家族にしてもらう必要があると思います。
 
今、医療の現場では治療方針の決定に際して本人や家族の意向を尊重するのが普通だと思います。これはある意味当然のことでしょう。これまでのパターナリスティックな医療では医師にお任せということが多かったのかもしれませんが自分のことを自分で決められるというのは当然だと思います。それも十分な情報が与えられていて、理解できているということが前提です。
しかしだからとって患者さんや家族の言ったことを何でもそのとおりにやることがいいわけではない。
今回の例のように最初「できるだけ長く」と言っていたから、心肺蘇生を望まれたからといって、臨終の際に心臓マッサージをしてしまったとしたら誰も良い思いをすることはないでしょう。
 
「できるだけ穏やかに過ごしてほしい」と願っていながら、「できるだけ長く生きていてほしい」と思っている人は、癌の終末期においてはそれらが互いに矛盾することであることに気づいていないのかもしれません。あるいはわかっていても心情的に割り切れないのかもしれない。
 
そのような場合、「できるだけ穏やかに過ごすこと」はもはや時間の長短と無関係であること、心肺蘇生が本人に苦痛を与えてしまうことなどを説明して本当にそれが患者さんにとって良いことなのか、考えてもらう必要があります。
 
医療者と患者さん・家族とでは当然情報量も経験も違うわけですから、専門家として自分の見解やこうすべきということを伝えるのは重要なことだと思っています。

癌末期の患者さんの最期を穏やかに見守るために大切なこと②

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
前回は、癌末期で穏やかな最期を過ごそうとしている人に心停止・呼吸停止の瞬間が訪れた時、心臓マッサージや人工呼吸などのいわゆる心肺蘇生はふさわしくないですよね、という話でした。
 
このことは理屈から言ったら至極全うだと思っています。
そしてご本人にその意志をを聞くと、まず心肺蘇生を望む人はいません。それはそうだろうと思います。より長く生きることに価値をおいていないのですから。
 
しかし時に家族がそうは思えない場合があります。一分でも一秒でも長く生きていてほしいという気持ちが強くて、亡くなる姿を黙って見ていることなんてできないと考えてしまう。
 
前回紹介した末期癌におかされた49歳女性のお兄さんもそうでした。
お兄さんに急変時の対応について確認をすると「家族としては一分でも長く生きてほしいと思う。そんなに割り切ることはできないですよ。」と言われました。
確かにそうかも知れません。3ヶ月前に余命半年くらいかもしれないと言われ、今、死を看取る瞬間に直面させられている。少しでも長く生きていてほしい、死なないでほしいという思い。もっと何とかできなかったのかという思い。色々な思いがあって、黙って見ていることができないと考えてしまう。
しかし一方で残り少ない時間を苦痛無く穏やかに過ごしてほしいと願っている。本人の望むようにしてやりたいとも思っている。
残される家族の思いというのはこのようにアンビバレントになって当然のことだと思います。
でも本当の願いは穏やかに最期を過ごすことだと思っています。
我々としては、妹さんの最期の場面に心臓マッサージなどの蘇生行為はふさわしくない、それでは穏やかに最期を過ごすことはできないとお話しました。
「頭ではわかります。理解はできるけれども、心情的には受け入れられません。」このように言ったお兄さんですが、頭で理解できることに同意されました。
 
そして、この方は大好きなお兄さんに見守られながら穏やかな最期を迎えられました。
 
(続く)

癌末期の患者さんの最期を穏やかに見守るために大切なこと①

家庭医として患者さんと関わっていく中で、病気とは何か・健康とは何か・死とは何か…など様々なことを見つめ直す日々です。
 
癌末期で亡くなりつつある患者さんを見守る家族の話です。
診療所を受診する患者さんは高齢者が圧倒的に多いですが、たまに若い方もいらっしゃいます。
その方は49歳女性で、胃癌の多発肝転移でした。見つかった時はすでに肝臓に転移しており、その数ヶ月後には検査データは悪化、倦怠感が強くなり黄疸(白目のところや皮膚が黄色くなる)もでていました。
いよいよ最期のときが近くなり自宅療養も難しくなってきたため入院をすることになりました。たった数ヶ月の経過でした。
ご家族は遠方に住むお兄さんしかおらず、これまで電話でのやり取りはしていましたが直接会って話はしていませんでした。このときになって初めて面談をすることができました。
お兄さんは患者さんにも会っていなかったため、この数ヶ月での急激な変化に戸惑い、受け入れられない様子でした。当然でしょう。数ヶ月前にいきなり電話で癌の末期でもう長くないなどと言われていたのです。まだ49歳です。
しかし実際に会って本人の状態をみて、また面談でいろいろな検査結果を聞くことで、これが逃れられない事実であるということを理解されたようです。
今はすでに癌の治療をするという段階ではなく、いかに苦痛無く穏やかに最期の時間を過ごしていただくかが最も重要な問題です。入院先としては苦痛をとることを目的とした緩和ケア病棟を考えていました。
 
さてこのような患者さんが最期の時間を過ごすにあたって、確認をしなければならない大切なことがあります。
その一つが、急変時の対応です。急変時というのは、急に呼吸が止まったり、心臓が止まったりするような緊急事態のことです。このような自体になれば通常は心臓マッサージや人工呼吸等のいわゆる心肺蘇生を行います。
では今回、この対応を確認するとはどういうことでしょうか。心肺蘇生をするかどうかに確認など必要があるのでしょうか。
実は確認とは、癌の末期でもう先が長くないような人についていえば、医療者の立場からすると「何かあっても心肺蘇生をする必要はないですよね」という確認なんです。
こんなことを言うと、「患者を見捨てるのか」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そうではありません。癌の末期で残された時間がわずかになっている患者さんが、できるだけ苦痛の無いように穏やかに過ごしてもらいたいという気持ちに異論のある人はまずいないと思いますが、心肺蘇生をしないという行為はその延長線上にあります。
最期の時がいつやってくるのかは誰にもわかりません。徐々に衰弱して眠るように息を引き取る場合もあれば、昨日まで比較的元気に過ごされていた方の容態が急激に悪化して亡くなることもある。いずれにせよ、この時期はぎりぎりの状態で体を維持していますから心肺停止になった場合は蘇生行為をしても心拍が再開する見込みはほとんどないといっていいでしょう。
しかも、万に一つそのとき心臓が動き、呼吸をするようになったとしてもその時点で直面するのは余命わずかという現実であり、残されたのは生きる力をさらに奪われた肉体なのです。これはある意味とても残酷なことではないでしょうか。
患者さんが残された時間を最期まで穏やかに過ごすためには、心肺蘇生をしないということが前提とさえ言えるのです。
 
これは第三者からの立場で言えば当然のことかもしれません。
しかし家族にとっては、あるいは家族によっては必ずしもそうではないでしょう。
 (続く)